島根大学医学部の今 Present

4人が横に並んで笑っている画像

島根大学医学部 創立50周年クロストーク

1970年代←→2020年代 あのころから今へ、今から未来へ。

医の道を志す若者が大学へ入学し、時代と共に変化する環境の中で懸命に学び、時には困難を乗り越えながら医師として成長し、そして歳を重ね次の世代を育てバトンを渡す立場になる―― それが50年という時間の厚みです。

医学部の歴史とともに歩んできた第4期生(1985年卒業)が集合。ご自身が医学生や研修医だったころと今との違い、これからの医療人の育成に必要なこと、目指す未来について語り合っていただきました。

対談参加者プロフィール

椎名 浩昭 先生

椎名 浩昭 先生

1985年卒業。米国・カリフォルニア大学サンフランシスコ校留学などを経て、2012年に泌尿器科学講座教授に就任し、当院初の手術支援ロボット「ダ・ヴィンチ」を用いた手術を行う。副医学部長、附属病院副病院長などを経て、2021年より附属病院病院長。専門分野は腎移植、腎血管外科、血液透析、泌尿器がんの拡大手術。泌尿器科専門医・指導医、移植認定医、腎移植認定医、ICS、医学博士。島根大学理事。山口県出身。
モットーは「利他行」。


谷口 栄作 先生

谷口 栄作 先生

1985年卒業。島根県立中央病院で研修後、雲南保健所をはじめ、県内保健所及び島根県健康福祉部薬事衛生課、医療対策課に勤務。2006年より浜田保健所、県央保健所の所長として島根県の公衆衛生活動に関わる。2010年に島根大学医学部地域医療支援学講座教授に就任し、主に医学生の地域医療教育に従事。2019年より島根県健康福祉部医療統括監。京都府出身。
モットーは「為せば成る」。


鬼形 和道 先生

鬼形 和道 先生

1985年卒業。群馬大学小児科に入局後、2007年に米国・シカゴ大学に留学し分子甲状腺学を研究。2009年より附属病院小児科、2012年に卒後臨床研修センター長・教授に就任し、研修医の指導を行う。2020年〜2022年に医学部長、2025年より附属病院特任教授。専門分野は小児内分泌。小児科専門医、内分泌代謝科(小児科)専門医・指導医、臨床遺伝専門医・指導医、臨床研修指導医、医学博士。島根大学副学長。群馬県出身。
モットーは”Go, go in peace. A mysterious hand will guide you.”


田邊 一明  先生

田邊 一明 先生

1985年卒業。益田地域医療センター医師会病院、国立循環器病センター、米国メイヨー・クリニック(ミネソタ州ロチェスター)留学、神戸市立医療センター中央市民病院などを経て2008年より内科学講座内科学第四教授・循環器内科診療科長、2019年より附属病院副病院長。専門は循環器疾患全般、特に心エコー。内科指導医、循環器専門医、超音波指導医、成人先天性心疾患専門医。松江市出身。
モットーは「断らない診療」「どこへ出しても恥ずかしくない人材育成」。


【memory】過酷な研修医時代〝必死〟な日々が成長させてくれた。

鬼形

我々の時代は、6年で大学を卒業したらダイレクトに医局に入って修業する流れ。1年目、2年目は言われたことをそのままやる、伝統工芸の徒弟制度のような感じでした。

椎名

「ハラスメント」という概念がなかったものですから、それはそれは厳しい環境でした。
例えば手術。今はきれいな画像で学べますが、当時はそんなものはない。見て学ぼうと思ったら実際の現場で手術台に近づかないといけない。でもあまり近づきすぎると上級医師から「不潔だから寄るな」と喝が飛んでくる。
ビデオによる復習なども当然なく、技術を見られるのはその場限り。必死で覚えてスケッチをしていました。
そういう点では今は環境が良くなりましたね。

田邊

今のようにインターネットもなく情報源も限定的。 上級医から得る経験がすべてでした。椎名先生が言われるように、不便な中で必死に一人前になろうとしていたように思います。

椎名

〝必死〟の度合いが違いましたよ。 技術や知識を「教えてもらう」ではなく「もぎ取りにいく」というスタンス(笑)。 谷口先生は医局ではなく保健所の方に進まれたので環境が全然違ったのでは?

谷口

臨床の期間が短かったので、少しでも知識を身につけようとなんでもやらせてもらっていました。「なにかあったら呼んでください」と各所に言って上級医について回ったりしていましたよ。

椎名

実体験を通して得た知識は大事ですよね。卒業後5年ぐらいの体験がその人の医師としての生き方を決めると私は思っています。

4人が談笑する画像

鬼形

今は働き方改革が進んでいます。その点も昔と大きく違う。我々が医局に入ったころは昼の診療が終わるのが夕方で、暗くなってから自分の勉強をしていました。

卒後臨床研修センターで研修医のサポートをしていたころ、「一晩中病院にいたい」と望む研修医の声をよく聞きました。労務管理をしなければいけないので帰らせましたが、やる気は認めたい。ジレンマを抱えていました。

昔の研修医はずっと病院にいて経験を積んでいました。研修医を「レジデント」と呼びますが、この言葉には「住む」という意味がある。「病院に住んでいる人」なんですね(笑)。

田邊

そう、住んでいた(笑)。私は医師になったばかりのころ、月に15日ぐらい当直をしていました。当直室で寝れば家に帰らなくていいし、通勤に時間を費やすこともない。呼び出されたらすぐ動け、何もなければ朝ギリギリまで寝ていられる。

椎名

私は実験を夕方5時から夜中の1時~2時ぐらいまでやっていました。 馬鹿みたいに熱中していましたよ(笑)。

谷口

まあ、そこに好きなものがあったということですよね。

田邊

我々の学生時代は自由度が高かった。今はかわいそうなぐらいカリキュラムが詰まっていて、時間が限られた中で多くのことをこなさなければいけません。

鬼形

今は本当に隙間がない。学生は毎日知識を覚え、試験に吐き出す。この繰り返し。 医師に大切なのは知識・技術・態度ですが、態度や姿勢というのは講義では十分に教えられるものではない。今の若い人たちは、それを鍛える場が減っていると感じます。

椎名

学びの機会をつくり、モチベーションをどのようにして醸成させるかが今後の課題ですね。

1984年 田邊先生・谷口先生 6年生臨床実習の画像 1984年 田邊先生・谷口先生 6年生臨床実習
1996年 椎名先生と井川前病院長の画像 1996年 椎名先生と井川前病院長

【road】がむしゃらに突き進む中で見つけていった、医師としての理想像。

椎名

私は泌尿器科ですが、腸などの腹腔内臓器に対して手術もするし、内分泌に関わる病気は高齢の患者さんが多いので、幅広く診られるだろうと思い選びました。面白さを知ったのは基礎的な研究を始めてからでした。

谷口先生は大学生のころから外に目を向け、既に地域医療に力を入れていましたね。農山村地域研究会でも活動していた。

谷口

実はそれだけではなく、大学の授業が面白くなかったという背景もあります(笑)。

当時1~2年生の必修の教養授業で、心理学やドイツ語以外に数学・生物・物理など高校時代と大して変わらないものがあって「面白くないな、いい医者になりたいけど、『いい医師』ってどんな医師なんだろう」と探していたら、農山村地域研究会(現:地域医療研究会)に出会いました。大和村(現:美郷町)などの小さな地域を巡るなど、研究会での学外のいろんな人との出会いが今の道に導いてくれたと思います。

鬼形

我々は自由に研鑽する中で道を見つけていきましたよね。入学当時に志や目標、持っていましたか?

田邊

いや(笑)ないですね。

大学に行く目的はサッカー部の練習に出て、その後みんなで飯を食いに行くことだった(笑)。

とはいえ、3年生で解剖学が始まってからは医学の道に目覚めました。医師に向かう方向性は6年間で少しずつ熟成されていったように思います。

椎名

我々が入学した時に1期生の先輩がいる診療科は、3年・4年後の実際の姿を見ることができましたが、私の選んだ泌尿器科にはほとんど先輩がおらず、とっても不安だった。未来像を構築しにくい環境だったと思います。

田邊

進んでいくうちに道ができていった感じですよね。今はキャリアパスが提示され、最初から道筋のモデルがある。

鬼形

しかもその道はきちんと舗装されている道のことが多いんだよね。我々は違ったでしょ。

田邊

道というか沼に入っていく感じでしたね(笑)。浅いのか深いのかもわからないまま進まされたという……。

谷口

今はたくさんの先人にキャリアのことなどを教えてもらえます。 島根大学出身の医師たちは県内で頑張っている人が多いので、将来設計の参考になっているはずですよ。

ただ、人生は想定した通りにはならず、いろんなことが起こる。その時に乗り越える能力を身につけておくことが大事だと思います。

椎名

今はAIの時代になって回答がすぐにポンと出るけど、試行錯誤してたどり着く過程を大事にしてほしいですね。

鬼形

学生たちには利己主義ではなく利他主義を大事にしてほしいです。「誰かのために」という態度と姿勢を育てたい。

椎名

私は准教授になった時、教授の勧めでアメリカに留学しました。

自分自身が医学研究を学び、日本の学会に参加してくれる人材を見つけるという目的があったのですが、いざ行ってみたら逆に自分が教える立場にさせられた。そこで挫折感を味わいました。

しかし、研究に向き合ってチーム一丸となって取り組んでみたところ、業績がどんどん上がっていくんですよ。そこでチームワークの大切さと利他主義を学び、時を経て医療は公益性を持って平等に提供するべきだという考えに達しました。

小さな世界から飛び出すことが大事ですね。経験している最中は自分の選択が正しいかどうか判断できないけれど、後で分かるものです。

【education】多様な経験を通し、人の心がわかる医師になってほしい。

谷口

現在中学・高校では課題解決型・探索型学習が取り入れられています。大学でも医学部以外の学部では地域の人と交流し、一緒に地域課題解決に取り組んでいる。医学部でもさらに取り入れられると視野が広がるのでは。

鬼形

医師は大学を卒業して研修医になった1日目から、患者さんや医療スタッフに「先生」と呼ばれる。そのため自分の立ち位置が分からない人間になりがちです。

そういう意味でも、キャンパスから出て地域の人たちと話をする機会が必要。究極を言うと、医学部は1年生の時に全員居酒屋でバイトさせるなんていいかもよ(笑)。 または、地域で民泊させてもらってコミュニティナース(病院や施設ではなく地域で住民と深くかかわり、健康サポートなどを行う看護師)のような活動をしてみるとか。

4人が大きな円卓を囲って座っている画像

田邊

アメリカに「穏やかな海で腕のいい船乗りは育たない」という格言があります。負荷が本人にとって重すぎないか目配せをしていく必要はありますが、人を成長させるのはかかった負荷とその時間だと思います。それは今も昔も変わらないはず。

椎名

診療においてはそうですね。 根性を叩きこまれないと育っていかない。

一方で教育の観点からすると、全体を俯瞰して自分の立ち位置が分かる人間を育てないと、地域に貢献できない。「自分さえ良ければいい」という医療人を作ってはいけない。人の幸せのために尽くす利他主義が基本。

臨床の場では厳しく育て、教育の場では思いやりを持って学生・研修医に接する。そして多様な機会を与えることによって、医療人としての自身の全体像が分かるようにする。そんなバランスの取れた育成が理想です。

ただ、やっぱり時間が少ない! それをどう克服するかが今の課題です。

1994年 鬼形先生とシカゴ大学の恩師の画像 1994年 鬼形先生とシカゴ大学の恩師
2012年 椎名先生教授就任時の画像 2012年 椎名先生教授就任時

【history】挑戦と改革を続け、危機を乗り越えてきた50年間。

谷口

50年でいろいろなことがありましたが、歴史的に重要だと思うのは生体肝移植です。

初めてのことなので、普通は「失敗したらどうするんだ」という話になるんでしょうけど、附属病院に治療に対応できる人材がいて、大学もそれを認めたから受け入れた。つまり患者さんのために大きなリスクを取ったのでしょうね。

行政にいる医療人としては、全国で初めて地域枠を作ってもらったのも印象的な出来事でした。18年で400人ほど地域枠の医師が誕生し、義務年限を終えた人の8割ぐらいが県内に残っています。頑張ってもらっている実感はありますね。

今少しずつ総合診療のニーズの波が来ていますが、総合診療医の育成も島根大学は全国に先駆けて取り組んでいます。

鬼形

医学部長に就任してすぐにコロナ禍に入りました。今だから言いますが、本当にキツかった!

教育の提供ができなくなり、授業のオンライン対応を進めなければいけなかった。大変なことは山ほどありましたが、学生の不自由さの解消に注力できた時間だったと今は思います。医学部の教職員が団結し、教職員と学生も同じ方向を向けるようになれたのも良かったですね。

学生から「コロナのことで世間ではいろんなことが言われていますが、学生は学部長の方針に沿って共に歩こうと思います」と応援のメールをもらったことがあります。 忘れられない宝物ですよ。

田邊

私は循環器内科の3代目の教授です。その前の教授選で医局が分裂し、以来15年間、ほとんど人が入っていなかった。私が教授になったとき医局には6人しかいませんでした。

過去のことを踏まえ、開かれた医局を作ろうと励みました。教授として診療の現場では厳しく指導しつつ、医局をなんでも話せる環境にしていきました。医局制度を悪く言う人もいますが、私は医局を「医師たちの安全基地」だと考えています。「現場で疲れたらここへ帰っておいで」と迎え入れる場所であるべきだと。今、学内の医局員は17人になります。学外にも派遣しています。

この2代目教授選に端を発した変化が、私個人としては大きな出来事だったといえます。

椎名

私が心に残っているのは、「仲間はやっぱり大事だ」とさまざまな局面で学べたこと。

ここにいる先生方には、いろいろな出来事を一緒に乗り越えていただきました。

例えばご献体の扱いが不適切だったことが発覚した際、医学部は大変な危機を迎えました。鬼形先生は医学部長という立場で私と一緒にお詫びに回っていただき、私が行けない遠方にも謝罪に行ってくれました。

コロナ禍では谷口先生のご支援がありがたかったです。さまざまな情報をご提供いただき、的確に病院に還元できたので非常に助かりました。

連携というのは大事なことだと身に染みています。何年経っても仲間は仲間。学生にも伝えたいです。

【future】専門分野に長け、心に寄り添えるプロフェッショナルを育てる。

谷口

医学部は島根県にはここしかありません。そのため、島根大学医学部は県内の〝最先端〟を求め続けてほしいと思っています。

常にアンテナを張り、新しい治療法が確立されたら県民に提供すること。他の病院の役割を理解し支援をすること。それが大学の医学部の機能だと考えます。

「全県をどう支えるのか?」という視点を持ちながら、医療に関わってもらえると嬉しい。県民のみなさんもそういったことを大学に期待しているんじゃないでしょうか。

田邊

医療の世界は今ものすごく専門分化してきているんです。ひとつの診療科の中でも、求められる取り組みや技術などがどんどん増えている。便利な時代になれば医師の数が少なくて済む、なんていうことは決してない。むしろやらないといけないことは今後も増えると想像しています。

今求められている総合診療も大事ですが、一方で専門分化に対応できる人も養成していく必要がある。そのためにはやはり人をたくさん集めないといけないと思っています。

4人が外で過ごしている画像

鬼形

患者さんの痛みや困り事などに心を寄せ、気持ちをわかろうとする医師が少なくなっているかもしれません。「優れたお医者さんだけど、知りたいことを聞けなかった」とつらい思いをする患者さんを作らないよう、困っている人を察知できる人材を育てたいです。

地域で教育者や指導者になれるような人間が理想。〝おせっかい〟な面や指導的な役割を持った、地域の方に「ぜひ先生に診てほしいんです!」と望まれる医者が理想。

プロフェッショナリズムという言葉が最近よく使われます。「それってどういうもの?」と聞くと、みなさん「カリスマ性」とか「プレゼンテーション力」とか答えるんです。

僕はやっぱり、「自分のしたことで患者さんがこれだけ喜んでくれた」と感じることがプロフェッショナリズムじゃないかと思います。 いいレセプター(受容体)を持った学生はたくさんいますから、そこを伸ばしていきたいですね。

田邊

私の「良い医者」のイメージは富士山です。専門性を伸ばし高い山を作ると、必ず裾野が広がっていく。 富士山のように高く裾野の広い医者は地域に出ても活躍できます。 そこに鬼形先生のおっしゃるようなことが加わると、本当に良い医者になれると思います。

椎名

医師のプロフェッショナリズムとはなにか?と問われたら、私は「本来あるべき姿を自分で理解していること」だと答えます。

あるべき姿とは、地域と連携でき、専門性があり、診療科における自分の立ち位置も考えて行動できるということ。

島根大学が進める地域医療と先進医療の調和は、その理想にフィットすると思います。

昨今はAIの導入や医療のDX化も進み、さまざまなことが発展しています。でも基本となるのはこのプロフェッショナリズム。

医師としてあるべき姿をしっかり理解し行動できる人間を育て、地域のために先進医療を還元し続ける、そのような医学部であり続けたいと思っています。

4人が外で肩を組んでいる画像

Messages from Graduates

卒業生からのメッセージ

医師として歩んできた道のり、学生時代の思い出、そして未来の後輩たちへの期待と励まし。
卒業生の声から島根大学医学部の歩みと精神をあらためて感じて頂ければ幸いです。

もっと見る
Donation

ご寄附のお願い

医療発祥の出雲の地から、次の50年に向けた未来の医療を拓くため、皆様の温かいご支援を賜りますようお願い申し上げます。